古都首里の歴史と文化を学んで、
もっと首里を好きになろう!


第4期首里大学(市民大学)開催レポート

平成25年度「琉球王朝祭り首里」&那覇市歴史博物館&おきなわ県民カレッジ連携講座

全5回の講座です。日程とカリキュラムはこちらご覧ください。

首里振興会と那覇市歴史博物館、おきなわ県民カレッジとの連携講座「首里大学」は、
好評のうちに4年目の第4期に入り、講座内容は進化の度を深めています。

沖縄学の父・伊波普猷の提唱したニーチェの言葉「汝の立つところ深く掘れ、そこに泉あり」よろしく、
琉球王国のお膝元・首里についてのさまざまな「コト、もの、人」への興味にもたらされた学びを実践しています。


第5回最終回 平成25年8月29日(木)18:30~20:00
沖縄県総合福祉センター(501研修室)/那覇市首里石嶺町

講師 県立芸大付属研究所共同研究員 仲村 顕氏
テーマ 士族の陵墓




今回は士族のお墓ということで、高名な中城按司盛春こと、護佐丸一族の墓所を見てみよう。
一世・護佐丸の墓は中城城跡を少し下った岱城(だいじょう)下にあってよく知られている。
護佐丸は毛氏(豊見城家)で、「毛氏家譜」にはそのように記述されている。

二世・豊見城親方盛親は家譜に記述はないが、岱城に父の護佐丸と一緒に眠っている。
三世の盛庸(1957年)から四世・盛章、五世・盛続までは首里・玉陵裏側の見上森に葬られたが、
後に中城の護佐丸の岱城墓に移葬されたことが家譜に残っている。
見上森が途中から不使用になったためである。

六世・豊見城親方盛良は薩摩からの帰途、難破による水死。ため、無墓。
七世・盛常は赴任先の福州で病死したが(1648年)、客死した場合に葬られる琉球墓にその名はない。
八世・盛定は見上森に一旦弔われ、後に識名墓へ移葬と家譜にあるが、実際は繁多川の豊見城殿内墓に。
盛定の代に、第二尚氏十一代尚貞王から岱城(だいじょう)下墓地を賜っている(1687年)。
豊見城家家譜と岱城墓下賜については、図入り別紙資料参照
九世・豊見城親雲上盛治も八世と同じ経過をたどる。
十世・盛邑は薩摩へ向う途次、船が行方不明に。

十一世以降十五世(没年1833年)までは、家譜では識名墓となっているが、実際は豊見城殿内墓に入っている。
その間、大和名が「豊見城○○」のところが「豊見嶺○○」となっているのは、
国王の子の王子に「豊見城王子」がいたため、配慮して一文字を換えているあたりが興味深い。
十六世以降は、葬地が家譜に記述されていない。

また首里士族といえども、必ずしも首里に墓所があるとは限らない、ことを覚えておきたい。
糸満、南風原、宜野湾などに散在していた。

最後に沖縄と大和の墓に相違について。
形や儀礼は別として、大和の墓は墓誌や墓碑銘があるので、
どんな人がそこに眠っているのか、分かるようになっている。
墓参りに来た人に配慮して、墓の脇に名刺受けさえある場合も。
尚家に嫁いだ尚道子さん(料理研究家の岸朝子さんの姉)の場合がそうだ。

それに比べ、沖縄の場合、墓を開けないと誰が眠っているのか判然としないので、
清明や墓参りに行っても、誰に手を合わせているのか、不明なことが少なくない。
これからの課題といえよう。


★講義の詳細は、一番下の当日配布されたレジュメを参照してください。


永山潔理事長による講座最終回へのエール。


百名に迫る受講生のこの熱気が首里文化の継承と、新たな創造を開くはずだ。


女性の受講者が多いのも頼もしい!!


儀保久代那覇市歴史博物館館長によるスピーチ。
数百円で手に入る博物館オリジナル貴重資料の展示即売も実施!!


那覇市歴史博物館・古文書解読員の川島淳氏による講師紹介。
講師のキャスティングは、同博物館の推薦、ご協力による。


琉球史研究の若手旗頭・仲村顕氏による、琉球士族と終の棲家パート2の始まり、始まり~!


かの有名な護佐丸一族の家系を例に、琉球士族の墓について講義を展開していく。


護佐丸大公の御墓は、所領であった中城城跡の岱城(だいじょう)下に今もある。


亀甲墓の昔のスタイルを留める、護佐丸公の墓。五代下の子孫までがここに眠っている。



琉球士族・沢岻盛里の墓所。盛里は三司官まで上り詰め、慶賀使として明に渡ったとき、
王が載る籠と瑞泉門下に今もある龍樋・吐水石龍頭を持ち帰る。


盛里が1523年に持ち帰り、今も豊かな水を吐き続ける龍樋。


尚明、尚道子さんの墓所(東京)。墓右脇に墓参りに来た人たちための名刺受けまである。


共催の那覇市市民文化部博物館・古塚達朗館長による今年度首里大学閉講式の挨拶。


受講生ひとりひとりの名前を呼びあげて、「修了証」が授与される。
ただし全員ではなく、講座を4回以上受講した方に限ります。


人数が100人近いので、永山潔理事長も加わって、授与します。


最後に、昨年の首里大学で2度も台風により中止された野外授業
「歴史散策 ビジガービラマーイ」の一年越しの、実施要項がNPO法人那覇市街角ガイドの新城会長から伝えられた。
参加者は20名限定、すでに申し込みは締め切られている。
そのレポートは後日、公開します。


当日、仲村顕県立芸大研究員から配布された貴重な資料

各画像をクリックすると、拡大します。

 



 





 










第4回
 平成25年8月24日(土)9:30~12:00

野外フィールドワーク 古都歴史散策 中城御殿跡~御茶屋御殿巡り
案内役 古都首里探訪会の皆さん




「首里大学」は、座学として頭で学ぶばかりではなく、
学んだ内容を実地に足で訪ね歩き、知ることも大切にしています。
野外フィールドワークを実施することを恒例としています。

今年の野外授業は「歴史散歩」と題し、
その復元が視界に入ってきた次の琉球王となる王子の居住空間であった中城御殿、
また王府の別邸で、接待や芸能の殿堂、迎賓館だった御茶屋御殿などを訪ねました。

以下、写真と資料でその模様をダイジェストします。
当日は、60名余りの受講生が参加され、5つのグループに分かれ、
9名の古都首里探訪会の皆さんがご案内しました。


★コースとポイントの詳細は、一番下の当日配布されたレジュメを参照してください。

回るコース(混雑を避けるため、時計回りBコースとその逆のAコースが用意されました)
このダイジェストは、カメラマンとして随行したBコースの道順で編集してあります。

Bコースの道順 (画像をクリックすると拡大します)

    




首里杜館前のガジュマル広場に9時半集合なのに、皆さん9時前から集まっている。



永山潔理事長(中央)、熱中症に気を付けて、
12時までにここに戻って来てくださいと、出発のエール。



パノラマショット。帽子、飲物、案内テキストが必携。皆さん、遠足に行く学童のようにウキウキしています。



手旗を目印に、グループに分かれます。カメラマンはBコース3班に随行することに。
メインガイドは松島弘明さん(右端)。



天気がいいので、コースにはない西のアザナにまず行き、王府人目線で、
ナーファの町や港、慶良間、読谷などを展望。水平線の彼方に渡名喜島まで見渡せ、一同感激。



道のあちこちで、他グループとすれ違う。



龍潭のほとりから、中城御殿が復元される方角(県立博物館跡)を見る。
手前には欄干の美しさで有名だった世持橋の場所を確認する。



中城御殿の敷地へ入ると、出てくるグループと遭遇。
「いやー暑いなあ」が挨拶というか、合言葉。



中城御殿大広間庭園の遺構跡。末尾のガイド資料にあるような重厚な庭園が往時は存在していた。



中城御殿の御嶽跡。復元の暁には、重要なポイントになりそうだ。



当蔵のスージグヮーをどんどん分け入っていく。古都首里奥の細道。



「那覇市景観賞」を受賞した瓦屋民家。緑色の塀の左端に景観賞のエンブレムが掲示してある。



県立芸大へ抜け、涼を求めつつ、弁財天堂、城周辺へ。



久慶門脇の樋泉をチェック。これらの水が円鑑池や龍潭の水源となった。



上の毛からスーパーJA城下町店向いに下りて来ると、そこに四代尚清王の国王頌徳碑が。
久高島、斎場御嶽への遥拝所・弁が嶽への参道を石畳道に整備した功績など讃えている。



赤田クラブは赤田公民館。
王朝時代は、神女組織の一翼を担っていた首里阿部志良礼の居住場所。
赤田みるくウンケーが復活して20年。その周年行事や市観光功労賞受賞など
めでたい事が続いている。



昔の泡盛酒造所の石垣はポーンター積みといって、幅が厚く、上部が丸みを帯びていた。
これは酒の麹を寝かせるとき使うニクブク(ムシロ)を干すのに便利だった。
泡盛製造の伝統をもつ首里三箇ならではの“遺跡”といえよう。



御茶屋御殿跡に今も遺る石垣。首里カトリック教会の敷地内にある。
この石垣の上に王府芸能の殿堂兼迎賓館である東苑が戦前まで建っていた。



雨乞御嶽に隣接する御茶屋御殿石獅子。以前は御殿内の岩陰にあったが、
岩が崩壊の恐れがあったので、ここに移設。御殿を火災から守るとされていた。



雨乞御嶽。王府時代、7カ月以上雨がないとき、国王自ら雨乞いの儀式を行ったとされる場所。
またここからの眺望は見事で、「雩壇春晴(うんだんしゅうせい)」と冊封使にも賞賛されている。



崎山公園内の崎山御嶽。察度王の子・崎山子(サチヤマヌシー)の屋敷跡とされる。
大量の大和瓦が出土していることから、瓦葺きの建物があったしるし。



歴史散歩は最終盤。首里城南東崖下のマダマスージを行く。



城崖下の腓城(クンダグスク)。第一尚氏最後の王尚徳の世子の腓骨が
埋められていた伝説があり、御嶽にもなっている。この後、ゴールの首里杜館へ。



かつての腓城(クンダグスク)。案内役の松島さんが写真資料を見せてくれた。



各グループの案内を担ってくださった首里古都探訪会の皆さま方。
暑い中、誠にご苦労さま、有難うさまでした。
熱中症などのトラブルもなく幸いでした。



当日、古都首里探訪会から配布された手づくり資料
各画像をクリックすると、拡大します。

 



 
Aコース道順(Bコースは野外コース説明の最初に表示)




 







 
 
   
   
   
   
   

読みにくいですが、御茶屋御殿復元を伝える報道。


第3回
 平成25年8月15日(木)18:30~20:00
沖縄県総合福祉センター(501研修室)/那覇市首里石嶺町

講師 県立芸大付属研究所共同研究員 仲村 顕氏
テーマ 王家の陵墓




「陵墓」は、死者が葬られた場所だが、「陵」は大がかりのものや、王、王族など貴人の葬地を意味し、
一般的な「墓」とは根本的に異なる。

王家、王族、士族などの家族・親族関係を記述し、彼等の一生が分かるようにした史書が「中山世譜」で、
そこには舜天王統(三代)から、第一尚氏王統(七代)、第二尚氏(十九代)について詳述されている。
舜天王統の葬地については触れられていないが、伝説上の陵墓は存在していて、訪ねることができる。

それは北中城村の仲順界隈にあって、ナスの御嶽と呼ばれている。
コスタビスタホテルから仲順方面を向う道路沿い左手にあり、かなりの規模だ。
岩の上に五輪塔形式の墓所が設けられ、その水輪には、右から
「舜馬順熙王之墓/舜天王之墓/義本王之墓」と刻まれている。
いつ頃からあるのかは不明だ。
「義本王之墓」はここ以外にも、国頭辺戸にもある。

英祖王統は浦添城跡が本拠で、一族は浦添ようどれに祀られている(全員かかどうかは不明)。
ようどれの建造は古く、1261年に英祖によって、隣接する極楽寺と併せて建てられた。
向って右が英祖で、左が第二尚氏七代尚寧王のもので、1620年に建てられた。
尚寧の王妃、父、祖父、叔父なども葬られている。
冊封を最初に始めた察度の墓はどこか、今のところどの史料にも記述がない。
一説に首里城南東崖下の仁君主御主前(ジングンジューウシュメェーヌー)墓がそれでないかと言われている。

第一尚氏王統の陵墓は、第二尚氏の玉陵に比べると、知られていない。
初代尚思詔は佐敷ようどれ=月代宮(自衛隊基地内、入れる)に弔われているが、
尚巴志、尚忠、尚思達の三人は当初、首里の天山陵にあったが、
第一尚氏滅亡、つまり第二尚氏成立時に、読谷伊良皆の陵墓へ移された。
尚金福は浦添の米軍基地内(外に遥拝所あり)、尚泰久は南城市、尚徳は識名のマンションの隣にある。

第二尚氏王統は大半が玉陵だが、二代尚宣威は葬地不伝ながら沖縄市に王墓がある。
最後の十九代尚泰王も玉陵だが、琉球処分後の尚家当主・尚典氏も玉陵、
次の尚昌氏は東京、次の尚裕氏は第二尚氏王統出身地の伊是名島玉陵に葬られている。

各王統の墓陵について、琉球新報で連載中の「眠れる先人たち」の記事で詳しくガイドしているので、
訪問のする時の参考にして頂きたい。


★講義の詳細は、一番下の当日配布されたレジュメを参照してください。


今週も多数の参加。かなり専門的な講義なのに、中高年の方々の向学心はスゴイ!!


永山理事長の元気いっぱいの挨拶で幕開け。右は、司会進行担当の泉健司総務企画部長。
 


那覇市歴史博物館・古文書解読員の川島淳氏による講師紹介。


本日の講師、県立芸大付属研究所共同研究員の仲村顕氏。
バリバリの琉球史若手研究者だ。
琉球新報紙上で「眠れる先人たち 墓所にたずねる琉球・沖縄史」を長期連載中!


パワーポイントによる講義。
伝説に彩られた舜天、舜馬順熙、義本の三王の陵墓を解説する。
北中城村仲順にあるその場所も丁寧にガイド。


第一尚氏の二代尚巴志、三代尚忠、四代尚思達の三王の陵墓は、
現在読谷伊良皆の森の中にあると。自身が先の新聞連載のために取材し、
撮影しているので、説得力が倍増する。


第一尚氏最後の王、尚徳の墓。
その場所は意外にも、那覇市識名のマンションの隣にあった。


第二尚氏の歴代王は玉陵に葬られているが、二代尚宣威に限っては、
そこではなく沖縄市の方にある。三代尚真王への例の代替わり事件、
尚真の母オギヤカの玉陵碑文のあの呪詛と関係しているのだろうか。


90分ノンストップの授業。室内はクーラーで涼しく、脳は琉球史で熱く燃える。


来週の野外授業「中城御殿・御茶屋御殿巡り」について説明をする、
ガイド役の古都首里探訪会・桑江良勝さん。



慶佐次興和副理事長による〆のスピーチ。昨年台風で二度も流れてしまった
「首里大学 歴史散策 ビジガービラマーイ」(NPO法人那覇市街角ガイドが案内)の特別実施(8月31日)を説明。
この日の講義前に参加者を募集したところ、定員20名だが、講義終了時に埋まってしまった。


当日、仲村顕県立芸大研究員から配布された貴重な資料

各画像をクリックすると、拡大します。

 



 





 







 
 



第2回 平成25年8月8日(木)18:30~20:00
沖縄県総合福祉センター(501研修室)/那覇市首里石嶺町

講師 沖縄国際大学教授 田名真之氏
テーマ 首里士族Ⅱ ~中下級士~




前回の御殿・殿内といった上級士族に比べ、中下級士族はかなり待遇が良くない。
村を領地とする有禄士族の脇地頭・○○親雲上(ペーチン)クラスはまだいい方だが、
地頭職に上がっていない、島持ちでない、家禄もない無禄士族が多数いて、大変であった。

その上、王国末期に入ると、士族人口が4万人余に膨れ上がった。
そのうち王府職員は約千人で、高位高官、専門職を除く一般職員は七百人、
これを中下級士の無禄士族五千~六千人で競合することになる。

このため琉球王府は、中下級士の就職難解決のために、
城勤め以外の仕事に従事することや、民間への就職、田舎で農業する(屋取り:ヤードゥイ)ことなども容認した。

中下級士のエリートコースといえる就職口は、科試(試験)採用による評定所筆者、国学筆者、聖廟番役、
書院右筆(代筆)、茶道役、国学・三平等学校の講談師匠など、十六の職種であった。
そのうち定役(年期なし、俸禄6~8石))の評定所筆者(文書作成事務の以外に部署職員の意味も兼ねる)などを十年以上勤めあげると、
進貢船にのる渡清役(北京大筆者、福州脇筆者など)に出世できた。

渡清役は進貢船の中に自分の部屋を持てるので、昆布などの輸出物産を積み込んで、
中国各所で売りさばいて、利益を上げることができるので、中下級士の最終的な目標であった。
また、物品を扱う物奉行方などの役人も役得があるので、憧れの勤め口であった。

中下級士の就職チャンスは、星あげ(勤務成績)と推薦(コネ)が大半だったが、
実力勝負の科試(試験)に合格すれば、それに恵まれない者も出世できたので多数が挑戦した。
試験は年に一回(二回の例外の年も)、受験資格は首里・泊の無禄士、年齢は39歳以内。

受験科目は一次試験が経書、道徳関係、二次が時事問題。
一回の受験者数は500人~600人。そして、合格者はたったの1~3名(大体2名)!!!
合格倍率250倍~300倍の狭き門。合格者平均年齢30歳半ば。
それでも毎年多くの中下級武士が科試に挑戦し続けたということは、
そこに彼等の栄達への願望と、王国を背負って立つ気概や誇りを見ることができようか。

王府の実質的な内閣といえる表十五人衆を支えていたのは
こうした中下級士出身の評定所筆者や申口方筆者、物奉行方筆者であった。
彼等は任期一年足らずで部署を異動する表十五人衆と違い、
年期なしで長期同職に留まり、過去の事例に精通し、如何に対処して来たかを熟知していた。
彼等なくして評定所は機能しなかったはずで、
だからこそ「定役」として優遇され、中下級士の目指す“頂きとしての役職”になっていたに違いない。


★講義の詳細は、一番下の当日配布されたレジュメを参照してください。


今週も100名近い受講者が訪れ、受付は大忙しなり。


先週に続いて、田名真之沖縄国際大学教授の連続講義。
琉球王府を下支えした中下士族の世界を熱弁。


今週もビッシリ満員の盛況、首里大学学徒の皆さん。


パノラマ壮観の図です。


王府の政策審議機関「表十五人衆」の決議内容と署名。
この決議に中下級士の評定所筆者が大いに関わり、王国を動かした。


中下級士の目指す役職である定役。
科試合格が絶対条件の評定所筆者、書院右筆、漢文組立主取などと、
過去の勤務具合と推薦でなれる申口方筆者、物奉行方筆者などに分かれる。


スクリーンに映し出される内容と教授の講義アナウンスを
目と耳を駆使して把握していくので、かなり授業は理解のスピードを必要とする。


ペリー来航以前から異国通事(英語通訳)の職にあった板良敷(牧志)朝忠も
評定所筆者科試をめざしていたが、王府は慌てて異国通事を定役並みの扱いにする詮議を行った。


講義後の質疑応答も活発!中下級士の禄高が、江戸幕府の各藩士族に場合に比べると、
かなり少ないので、家計の方はどうしていたのか?など、素朴な質問も…



現代同様に、奥さんが働いて家計を助けていたことは当然考えられる…と、
質問に丁寧に答える田名教授。

当日、田名真之教授から配布された手作りのレジュメ
各画像をクリックすると、拡大します。

 



 





 







第1回
 平成25年8月1日(木)18:30~20:00
沖縄県総合福祉センター(501研修室)/那覇市首里石嶺町

講師 沖縄国際大学教授 田名真之氏
テーマ 首里士族Ⅰ ~御殿・殿内~




一口に琉球首里王府の士族、つまりサムレーといっても、さまざまな階層がある。
封建制度、位階制、身分制を背景として、大きく分ければ、
御殿(うどぅん)や殿内(とぅんち)とよばれる上級士族や王族、貴族層。
そして、来週ふれる中・下級士族。

御殿とは、もとは王府や王家の建物や屋敷にたいする呼称だったが、
近世以降、それらが王子家や按司家の場合、
その屋敷の当主を指す尊称のようなものになった。
たとえば次の琉球国王になる中城王子なら、中城御殿といったように。

同様に、殿内も、首里殿地(スイトゥンチ)やノロ殿地のように建物を指す呼び名だったものが、
総地頭家の屋敷のことだけでなく、そこの主人に対する通称になった。

それらは、たとえば江戸幕末の大奥に輿入れした篤姫が徳川将軍の正室として、
篤姫様と呼ばれるかわりに、「台所」に「御」をつけて、
「御台所(みだいどころ)」と尊称される慣習と似ている。

御殿、殿内階級とは、士の間切を領有する総地頭(家)のことをいい、
位でいえば御殿が王子・按司の家柄、殿地が親方家のことを指す。
その数は琉球王府全体で、どのくらいだったのか?

史料に若干の差はあるものの、明治6年の琉球藩雑記でみると、
近世の王府の行政単位である間切り・島の総数は44であるが、
そのうち御殿の数は28家(王子家2)で総数より、16少ない。

この理由は、王子・按司地頭が設置されていない座間味、伊平屋などの6間切があるほか、
聞得大君御殿の知念間切、佐敷御殿(王妃)の佐敷間切などの10間切が含まれないせいである。
(詳しくは文末の添付資料参照)

一方、殿内の数は同史料で、先の44地区から総地頭が設置されていない
5間切・島を除いた際の39地区と同じ数である。

さて、御殿・殿内の役職だが、
王子の場合、摂政、後系図奉行、大与奉行、惣横目行の要職が固定。
按司は摂政を除く同様の要職に就く。
臨時で冊封使来航時の踊奉行、先王法要時の御茶屋御殿奉行、薩摩や江戸への使者など。

殿内の役職については、総地頭家嫡子の出世昇進モデルで見てみよう。
下庫理小赤頭(こあくがみ、役人の接待役、イケメンの若衆)、御書院御小姓、
奉行方吟味役(現在の内閣ともいえる表十五人衆)、日帳主取等を経て、
御鎖之側、紫冠・上告使者、御物奉行など歴任後、三司官がゴール。

それぞれの実在の小禄御殿、殿内の伊舎堂親方を例に、
出世昇進のプロセスを資料にしてあるので、
上級士族のその人生と、そこから見える琉球王府の世界をイメージして頂きたい。


★講義の詳細は、一番下の当日配布されたレジュメを参照してください。


永山潔・首里振興会理事長の第4期首里大学開講式主催者挨拶。


共催の那覇市市民文化部博物館・古塚達朗館長による開講式スピーチ。


県総合福祉センターの会場は、冷房はよく利いていても、熱気ムンムン。
ご覧のように、百名近い向学心いっぱいの「首里大学生」で満杯状態。


儀保久代那覇市歴史博物館館長による講師紹介。


本日の講師は、田名真之沖縄国際大学教授。琉球歴史学の第一人者です。
3年前の第一期首里大学につづき二度目の登壇です。


演題は、首里士族パートⅠ御殿・殿内について。


パワーボイントとスクリーンを駆使したビジュアルマインドな講義なり。


首里城を囲む古都城下の古地図には、御殿、殿内の屋敷がびっしりと並ぶ。


王府行政機構図。この一つ一つの要職に、御殿・殿内の士族が就き、王国を支えた。


講義後の、質疑応答も活発!



皆さん、琉球・沖縄・首里が大好きなんですねえ!!



慶佐次興和副理事長によるスピーチ。
その向学心を首里大好きのエネルギーに変えて秋の「琉球王朝祭り首里」を盛り上げましょうと。

当日、田名真之教授から配布された手作りのレジュメ
各画像をクリックすると、拡大します。