古都首里の歴史と文化を学んで、
もっと首里を好きになろう!


第2期首里大学(市民大学)開催レポート
平成23年度おきなわ県民カレッジ連携講座
平成23年第46回「琉球王朝祭り首里」&那覇市歴史博物館連携講座

全5回の講座です。日程とカリキュラムはこちらご覧ください。


第5回最終回・首里地区巡見&修了式 平成23年10月1日(土)9:00~11:30
首里杜館集合→4班(4コース)に分かれて野外講座実施

講師・案内人 首里振興会副理事長(前那覇市街角ガイド会長) 慶佐次興和氏(Cコース)
         那覇市街角ガイド会員 富田義照氏(Bコース)
         那覇市街角ガイド会員 米田保孝氏(Dコース)
         那覇市街角ガイド会員 照屋清雄氏(Aコース)
フィールドワーク 首里地区史跡めぐり


■コース
各コースとも巡る史跡は一部を除けばおおむね同じですが、
混雑を避けるため、道順の違いにより4コースに分かれました。

■(当日Cコースの場合の道順)
1首里杜館前(綾門大道)→2世持橋跡(龍潭前)→3大和ガー→4中城御殿→5宿道→
6佐司笠樋川→7羽地朝秀生家跡→8嶺間括り→9安谷川→10首里唯一の遊郭跡→
11仲田殿内跡→12安谷川御嶽→13当蔵村学校跡→14泰山石敢當→15伊江殿内庭園(巣雲園)→
16天王寺跡→17天王寺ガー→18蓮小堀・蓮華院跡→19建善寺跡→20首里城石垣→
21円覚寺→22弁財天堂・天女橋→23円鑑池→24龍淵橋→25重修天女橋碑記→
26園比屋武御嶽→27守礼門

■地図をクリックすると、ドド~ンと拡大します。



Cコースを、以下、写真で一緒に首里史跡歴史ウォーキングしましょう


100名をこえる受講生を4グループに分け、それぞれのコースをたどります。


さあ、各コースの旗の前に集まって!集まって!


まずは、王都・首里の地形と、全体像を脳裏に焼き付ける。(首里杜館1F)


沖縄戦で破壊された王朝時代の世持橋の遺構を見る。


世持橋の遺構の中はこんな具合。それにしても、古雅で、優美な橋だった。
龍潭の豊かな水を排水し、川へ流す役目を担ってもいた。


元池端町住民の唯一の共同井戸。大正初期、
ヤマトンチュが中心となって掘削したことで「大和ガー」と呼ばれる。


王朝時代の宿道を辿って、桃原の松山御殿内の佐司笠樋川へ。
第二尚氏3代尚真王の長女・佐司笠ガナシが掘り当てたとされるヒージャー。
湧水をそのまま汲むのでなく、樋(とい、写真中央奥部分)を利用するので樋川と呼ばれる。


首里のスージグヮーを「首里大学生」は学術調査を兼ねて
クネクネと、テクテクと歩く。


かの有名な名摂政・羽地朝秀生家跡も訪ねる。
名所旧跡、文化財などポイントごとに、このような案内プレートが設置されている。
NPO法人首里まちづくり研究会の緻密な仕事です。
クリックすると拡大します。


安谷川。地域住民の共同井戸として重要な史跡。


士族・仲田家の屋敷跡。古地図にも「仲田親雲上」と記されている。
屋敷を囲む大きな石垣と庭園が往時の雰囲気を伝える。
玉那覇味噌醤油の看板は王家御用達となった工場の名残りで、
現在も手作り無添加を製造、販売している。


王朝時代の首里で唯一の遊郭(料亭)のあった場所(仲田御殿跡並び)。
毛あしびの習慣のない古都の若い士族には有難い場所だった?!
それとも辻町まで出掛ける手間が省けた場所だったのでしょうか?


安谷川御嶽。首里大阿母志良礼(おおあむしられ)が司る御嶽の一つ。
宝珠をのせたアーチ門が拝殿の役目。奥に鍾乳洞がある。


当蔵のスージグヮーに、泰山石敢當の石碑。
石敢當の風習は15世紀に中国から伝来。沖縄で最も古いものとされる。
最後の王・尚泰が即位すると、その名を憚って「泰山」の二文字が潰された。


発掘調査中の伊江殿内の庭園・巣雲園。当蔵の店「でいご殿」の裏側に位置する。
士族階級の代表的な庭園で、自然の岩山に大小の奇岩を巧みに配置。


龍潭通りへ出て、首里公民館向い、首里教会脇の天王寺の石垣跡。
尚家の菩提寺ビッグ3の一つ。
首里振興会が主催する「琉球王朝祭り」の古式行列も
国の安泰と農作物の豊作を祈願するために、この天王寺ほか、
天界寺、円覚寺を正月三日に詣でた習わしを模したものです。


首里公民館裏手。天王寺の末寺・建善寺跡。第一尚氏泰久王の創建とされる。
寺後方の丘陵斜面を利用した美しい庭園があったとされる。
現在は入口の石段と良質な水で知られる井戸が残る。


首里城北東側の石垣の下を通り、円覚寺方面へ。


琉球のグスクならではの美しい曲線美。


円覚寺を裏側から見る。左が総門、右が放生池と放生橋
このやすらかな眺めに、一同、一息入れる。
さて、円覚寺の復元はいつの日のことか。


弁財天堂、天女橋の脇を通り、円鑑池と龍潭の間に架かるのが龍淵橋(道の中央の緑の部分)。


龍淵橋の脇に建つ「重修天女橋碑記」(じゅうしゅうてんにょばしひき)。
天女橋の改修記念の石碑が、後に転倒したため、
1798年に新たに建立したことを記す石碑(復元)。


第4回の古塚達朗氏の講義にあった、園比屋武御嶽石門の建造美を確かめる。
確かに台座部分が中央に向けて微妙な円弧を描いているのが分かる。


これまで何気なく見ていた、守礼門の屋根瓦にも注意を向ける。
一つ一つの瓦に念の入った細工と装飾がなされている。


2時間ほどかけて4コースに分かれ古都の史跡を探訪してきた受講生たちは、
いっせいに首里杜館の中庭に戻ってきた。
疲れはあるが、それは心地よい、知的に充足した疲れです。


第2期首里大学の修了証書が、4回以上聴講した受講者ひとりひとりへ、
慶佐次興和副理事長から手渡しされた。その数、100名余り。
この熱いジンブン向上意欲を、首里振興会としても、明日へつなげたい。
みんなで500年の古都首里をもっと知り、もっと愛していきましょう。
お疲れさま、有難うございました。

■当日配布された古都首里史跡めぐり資料
画像をクリックすると、拡大します。

 



 

 



 


 




 
 





 
 


 


 





 
 


 




第4回 平成23年9月28日(水)18:30~20:00
那覇市首里石嶺公民館2階ホール

講師 那覇市文化財課課長 古塚達朗氏
テーマ 「首里史跡・文化財について」




講師の古塚氏は那覇市教育委員会の文化財課が職場ですが、
同氏の行動半径は机周辺2メートル四方という極めて狭い範囲だそうです。
それほど仕事中は、調べ物や研究作業に没入していて、
その外へ移動する必要がないという象徴的なエピソードでしょうか。

微に入り細を穿つ研究熱心な同氏が言うのですから、
琉球の人はたぶん大いに自信を深めていいのです。
世界遺産に指定された我らが「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」について、です。

首里城については、その建物というより、
王国のグスクのあったその場所・空間が世界遺産になっているのですが、
園比屋武御嶽石門についていえば、
その石造建造物そのものが対象となっていると。
ピラミッドやバーミヤンの仏像遺跡と同様の評価を得ているとのことです。

見る位置や角度によって、石門の姿や印象が少しづつ変化します。
守礼門や歓会門から見ると、すこし小ぶりな感じですが、
近づくに従って、大きくなり、量感(ボリューム)を増す造形がなされています。

直線による輪郭ラインはどこにもなく、
丸みを帯び、正面から見た台座も中央部分に向かうに従って、
あるかなきかのわずかな弧を描きながらせり上がっています。

偶然でなく、しっかりとした狙いをもって造られた石造美。
ユネスコはこうした細部を見逃さずに評価したのです。

首里城全体を囲む石垣の縁のどこまでも続く曲線。
石垣が交わる部分の空へ向けて優美に丸く跳ねあがった意匠。
また歓会門や久慶門に見られる中国、欧米のどことも違う石造りアーチの見事さ。
これらも同様の美意識と築城技術から生まれたといえます。

園比屋武御嶽石門を建造したのは、竹富島出身の西糖(にしとう)。
いってみれば、ユネスコはこの西糖の匠の技に500年たって、評価を新たにしたのです。
彼は晩年、八重山の地頭職になり、功成り名を遂げました。
弁が嶽石門の建造も、同じ年、同じ人の作。

城が近いことを知らせるだけの、戸がなく、あくまでも飾りである壮大美麗な坊門・守礼門。
そこから500メートル先に、城を訪れる人を美しく迎える第一の坊門・中山門。
その両門の間の、前代未聞の広い八間幅の道に、
サンゴ砂を細かく砕いて敷きつめた綾門大道(あいじょううふみち)。
それは目映いくらいに白くキラキラと輝き、琉球王国のステータスを演出していた。

また識名園に見られる強い日射しを防ぐ二重の庇・相木の工夫と美、
悪を退治する魔力の化身・桃の実の形をアレンジした屋根瓦…などなど。

世界遺産の名に恥じないこれらの遺跡と建造物群を、
時間のある時にあらためてじっくりを観賞し、味わい尽くしてほしいと、
古塚氏は無言のうちに語っているようでした。


人気講師の登場に、今夜もギッシリの入りなり。


文化財の目利きによる、かなりマニアックな講義に一同、真剣。


グソーの実地勉強をしたいが、あちらへは片道切符で戻ってこられないし、
マイレージも使えないので…と、ユーモアも交えてエンジン全開。


座れない首里大学生のために、急遽、補助席もセッティング。


終了後の質問にも、にこやかに答えます。

当日、古塚達朗氏から配布された手作りのテキスト
各画像をクリックすると、拡大します。

 




 

 



 

 
 




 




第3回 平成23年9月21日(水)18:30~20:00
那覇市首里石嶺公民館2階ホール

講師 沖縄大学准教授 深澤秋人氏
テーマ 「首里地区の寺院について」




琉球王国は、第一尚氏の尚泰久王の時代から、仏教(臨済宗)と深いかかわりがあった。
と、いう深澤准教授のハイトーンな声で、講義は始まりました。

当時、僧侶は外交能力を併せ持っていたので、ヤマトと交流する上で欠かせない存在であり、
琉球は1400年代から彼らを招き、多くの寺を築造し、住職にもなってもらっていました。
その関係は、第二尚氏時代になってからも引き継がれました。
王家の菩提寺で臨済宗総本山・円覚寺は、京都妙心寺派で、薩摩の志布志にある大慈寺の末寺に相当。

少し遅れて、もう一つ密教(真言宗)が伝来、これも王家に保護された宗派で、
こちらは小野派醍醐三宝院の法脈で、本山の波の上・護国寺は薩摩の大乗院の末寺。
大乗院は島津氏の祈願所ということもあって、琉球の真言宗の権威を高めたとの由。

両派とも寺碌を与えられる官寺で(各八寺)、他は私寺(隠居寺)が多く、
併せて臨済宗系が70寺内外、真言宗系が16寺程度。
寺の格は、円覚寺は別格で、臨済宗の天王寺、天界寺、真言宗の護国寺はそれに次ぐ格付け。
王府は臨済宗に先代王の祭祀・供養、真言宗に王国護持の加持祈祷という役割を分担させました。

王府首里にある第二尚氏菩提寺の三ヵ寺は円覚寺、天王寺、天界寺ですが、
17世紀以降、それぞれ円覚寺を「王の御廟」、天王寺を「王妃の御廟」、
天界寺をそれ以外の王にならなかった王子たちの「御神廟」にと、
先王の位牌安置問題、宗廟祭祀を再編したほか、
那覇の崇元寺は、冊封使の先王供養のための舜天王以降すべての歴代琉球王を祀る国廟、
浦添の龍福寺は第一尚氏までの墓所…といった具合に位置付けを整えました。

王府のこうした姿勢には、東アジアの独立国としての矜持(プライド)や
“万世一系”琉球王国としての対中国外交政策などが背景にあったとされます。

臨済宗の本寺と末寺の関係でいうと、首里三ヵ寺は、
円覚寺のもとに末寺は那覇の崇元寺、伊江島の照太寺を含めて、興禅寺、報恩寺など計15寺。
天王寺はその下に、龍福寺、建善寺など計10寺。
そして天界寺のもとに安国寺、慈眼院など計6寺。(18世紀前半)

一方、真言宗は護国寺を筆頭に、臨海寺、聖現寺、観音寺(社宮併設)など、計11寺。
臨済宗が大半の首里とは逆に、真言宗系は那覇にあるのがほとんどですが、
その内、大日寺のみ首里で住職の頼慶から尚質王は儒教を学ぶとともに、この寺を建立しました。

また両宗派とも、中国渡来人の多い久米村にも寺院を持っていたというから面白いです。

士族と僧侶との日常の交流については、『伊江親方日々記』などに詳しく、
伊江親方朝睦が孫たちの読書指導を光徳寺や瑞祥寺の住職に依頼したり、
囲碁対局が周辺の寺院を会場に催されたり、
花見が寺の庭園で行われたりと、古き佳き王国時代の平和のいっときが偲ばれます。

質疑応答では、以上の二宗派のほかに、
薩摩が禁止していた隠れ念仏の浄土真宗や一向宗の集団宗徒が那覇遊郭のジュリの中にいたり、
檀家制度はなかったものの臨済宗の寺が庶民の身分を証明する寺請(てらうけ)をしたりなどの、
新たな研究成果も明かされました。

廃藩置県ならぬ“廃琉置県”以降の首里三ヵ寺は、幾多の変遷を経ての現在只今は…。
円覚寺は、復元された総門と放生池と橋を残すのみ。
天王寺は、首里公民館向いの跡地に首里教会が建ち、寺正門跡の門構えの石積み、石垣が残ります。
そして天界寺は、首里城公園の管理事務所および駐車場になっています。

末尾に、当日配られたテキスト史料と首里読史地図を掲載してありますので、
首里王府を支えていた寺院を指で訪ねて、散策してください。
そして余力のある人、歴女・歴男諸氏はこの地図を持って、首里を歴史ウォークしてください。


受講料の分は、しっかり・みっちりジンブンを持ち帰って頂きますと、深澤准教授。


今日も相変わらず、スインチュの向学心はムンムン・沸々たり。


演題の「首里地区の寺院について」は歴史を知る上で、避けて通れぬ重要必須テーマなり。


三回目の講義だが、全然、出席者の数が衰えない。スゴイ!


新しい研究成果も披露されるアグレッシブな授業。


講義後、熱心な質問者が次々と登場!既成の大学以上ではないでしょうか。

当日、深澤秋人准教授から配布された手作りのテキスト
各画像をクリックすると、拡大します。

 




 

 



 

 
 


■次回第4回講座は、9月28日(水)18:30~ 
那覇市文化財課課長・古塚達朗氏による「首里の史跡・文化財について」です




第2回
 平成23年9月14日(水)18:30~20:00
那覇市首里石嶺公民館2階ホール

講師 琉球大学准教授 前城淳子氏
テーマ 「首里を詠んだ詩について」



琉球王朝時は、首里城周辺の龍潭、そのほとりの世持橋、上と下の綾門(守礼門、中山門)、
円覚寺、御茶屋御殿、弁が嶽、虎瀬山、西森、末吉宮など、
首里八景を始めとした私たちにも馴染みの場所が、月や松、四季の花鳥風月、
恋や人事や行事に絡めて、歌に盛んに詠まれました。
歌や詩のジャンルも、琉歌はもとより、大和の和歌、冊封使の邦の漢詩と、
詠み人により、詠まれた状況により、様々でした。

前城准教授は、それらの厖大な作品の中から、印象的な詩歌、
現代でもイメージできる詩、また今から見れば新鮮な発見のある歌をピックアップ。
その一つ一つについて、作の背景、意味、観賞法を加えていきました。
下のプリントテキストとパワーポイント&スクリーン映写による
写真、図版を駆使した講義のため、臨場感があり、分かりやすいものでした。

たとえば、円覚寺を詠んだ琉歌。
現在は復元した総門と裏の放生橋と池しかありませんが、
王朝時代は総門両脇に、仁王像が守り神として配置されていました。
『円覚寺御門の 鬼仏がなし 我無蔵よこしゆすや おどちたばうれ』(琉歌百控)
もし私の愛しい人を誰かが、よこしゆすや(横道にそらす、誘惑する)ようであれば、
仁王様よ、その恐ろしい形相と力で脅して(威嚇して)、追っ払ってくだされといった内容の、
ユーモラスな琉歌ですが、往時の円覚寺の荘厳厳粛な佇まいが偲ばれてきます。

もう一つ、弁が嶽を詠んだ歌。
『弁の岳見れば、御涼傘ともて やらち見せたこと 櫨(はぜ)の紅葉』(琉歌全集)
ふと弁が嶽の方を見ると、あの色鮮やかで大きな傘(御涼傘)を広げたように見えるので、
使いの人をやって見に行かせたら、櫨(はぜ)の葉が真っ赤に紅葉していたということよ。
琉球古来の神キンマムン(金真物)が神聖な弁が嶽に降臨すると御涼傘があった
という伝説があるので、それを掛けた歌ともいえる、と准教授の指摘。

このような興味深い講義が次から次へ展開するので、
90分の授業があっという間に経ってしまいました。

その後、質疑応答の時間となり、
受講生から首里城を詠んだ歌がないのはどういうわけか。
歌会などは行われていたのか。
答えは、首里城は琉球王と同義の場所なので、
歌にしづらかったのでは、ないのではないか。
歌会の正確な記録はないが、南苑(識名園)を詠っんだ作を散見するので、
非公式の形では随時催された可能性はあるとの由。

琉歌、和歌、漢詩と、状況により形式を使い分けているが、
それは琉球士族の人文・教養の高さの証し。
琉歌はもとより、大和文化なら源氏物語や古今和歌集も嗜んでいたし、
中国文化の漢詩、五言絶句も七言律詩もなんでも体得していたと考えられる。
それが琉球王国の文化を奥深いものにしていたと、〆ました。


本日も熱気ムンムンなるも、クーラーはばっちり効いた快適環境の中でスタート。


物静かな人柄の中に熱い秘めたものを感じさせる講義。


名護親方・程順則(ていじゅんそく)の七言絶句。東苑(御茶屋御殿)の素晴らしさを詠んだ。


首里の北側・西森の松林の緑を賞でて、琉歌に。首里八景の一つと、解説。



美里王子の琉歌で、王国時代の虎頭山へのイメージがいやが上にも高まる。


詩歌による、90分の琉球王国へのタイムスリップに一同、大満足の様子。


講義後、ホームページ掲載用に、記念撮影。お疲れ様でした。
素敵な言の葉の旅を、イッペーニフェーデービタン!


終了後も、質問者の列が……。残業の風情なり。

当日、前城准教授から配布された手作りのテキスト
各画像をクリックすると、拡大します。

 




 

 



 

 
 




 

■次回第3回講座は、9月21日(水)18:30~ 沖縄大学准教授・深澤秋人氏による「首里地区の寺院について」です。




第1回
 平成23年9月7日(水)18:30~20:00
那覇市首里石嶺公民館2階ホール

講師 沖縄大学教授 上原富二男氏
テーマ 首里の地形概要 「地形と水環境」



昨年の第一期首里大学の好評を受け、場所を石嶺公民館に変えて始まった第二期首里大学。
会場スペースと駐車場が確保できない関係で、昨年より定員を限って受け付けました。
受講希望者が殺到したため、当初の80名の定員枠を広げてたものの、110名の受付が精一杯でした。
ご希望にお応えできなかった皆さまには深くお詫び申し上げます。

さて、佐久本武首里振興会理事長の代理として開講挨拶に立った慶佐次興和副理事長は
首里大好き人間を増やす目的の当大学として、嬉しい悲鳴をあげるとともに、
11月3日開催の琉球王朝祭り首里への参加と支援を力強く呼びかけました。

つづいて、我謝幸男那覇市歴史博物館館長から那覇市と首里振興会連携による本大学開講の意義と、
講師のキャスティングや本日の講師の紹介がありました。

その後、第1回講義に立ったのは、、
沖縄島嶼の地理学の第一人者・ 上原富二男沖縄大学教授です。
以下は、講義の抜粋です。

教授は、首里=シュイの地名は、諸説ある中から、自身の専門である地形からの由来を上げ、
久手堅憲夫氏の「岩(シー)の揺(よ)り上った地」、または「大きく揺(よ)り上った地」として、
察度が「しより」と形容したのが起源とする説に与する。
さらに、首里ことばで大きいことをを「しー」とよぶと、補足している。

首里の地形は、高い所にある平地ー台地であり、周辺の低地へは崖や急斜面で下る。
断層運動によって地層が断ち切られ、おおむね南東から北西方向へ傾いた地塊である。

首里全体が琉球石灰岩の堤のようになっている。
このためすり鉢状の凹地(ドリーネ)や鍾乳洞があちこちにある。
たとえば前者が桃原の佐司笠樋泉(ヒージャー)、後者が崎山ヒージャーである。

これらの地形は、また地滑りを誘発しやすい。
「ナゲーラ」という呼び名があるが、「流れる」という意味で、地滑りが昔からあったことを示している。
その地層は、古代海底で堆積した比較的柔らかな島尻層群で、泥岩(クチャ)と砂岩(ニービ)からなり、
ニービが風化するとジャーガルという土になり、水を含むとさらに地滑りを招くので注意したい

首里に樋川や泉が多いのは、上層の琉球石灰岩を透過した雨水が地下水となり、
さらに下の島尻層群と石灰岩の不整合面上のくぼみに集まり、低い方へ鍾乳洞を作りながら流れ、
台地周辺の崖地で地表に湧き出て、泉となる。
この地形、地層(岩石)、雨水の関係が、高台にある首里を泉が豊富な“水の都”にしている。

首里城内の龍樋(瑞泉)も、一年中水を湛えた龍潭も、宝口ヒージャーも、安谷ガーも、
50箇所に余る泉はすべて、この首里特有の地形、地層、雨水の恩恵の賜物である。

そして、首里台地の水環境と、天然の要害の地の特性、加えて那覇の港の存在が、
三山統一の過程で、首里を琉球王国の都たらしめたといえよう。

詳しくは、下の当日配布されたテキストを参照してください。


開講式直前。ご覧のように実に多くの「首里大学生」が集った。
あいにくのクーラーの故障も加わって、熱気むんむんなり。


昨年の会場・首里公民館に比べると明るく、音響もよかった印象。


受付もひっきりなしのベリービジー状態なり。


我謝幸男那覇市歴史博物館館長のしぶいスピーチ。



首里の地形について、かなり専門的な内容なのにグイグイと聴衆をひきつける講義。


パワーポイントとスクリーン映写で向学心がなぜか高まる。


講義終了後は、質疑応答もなされた。

当日、上原教授から配布された手作りのテキスト
各画像をクリックすると、拡大します。

 



 

 



 

 
 



 
 



 


■次回第2回講座は、9月14日(水)18:30~ 琉球大学准教授・前城淳子氏による「首里を詠んだ詩について」です。