首里振興会 古都首里を愛する人たちの輪

沖縄戦による災禍


沖縄戦による災禍

沖縄戦による災禍

首里に日本陸軍司令部があったことから、
王国の史跡・文化遺産のことごとくが消失し、
城下町のすべてが壊滅しました。

沖縄戦で一木一草まで壊滅した首里城周辺

沖縄戦による災禍

1944(昭和19)年、秋。
県都那覇市を襲った米軍の大空襲(10・10空襲)でも、首里の町は災禍を免れました。

東京大空襲でも皇居を避けて市街地だけを消滅させた米軍。
京都や奈良の文化遺産を攻撃目標から外した米軍。
これらの“文化的配慮”が沖縄でも適用されたかどうかは分かりません。

1945(昭和20)年。サイパン・硫黄島の玉砕と、戦雲急を告げるまで、依然首里は安泰でありましたが、しかしその頃から、沖縄全体が次第に破滅の道を辿り始めました。日本陸軍の精鋭第32軍が首里に司令部を置き、地上戦の準備を始めたからです。
首里城の地下に総延長千数百メートルにも及ぶ壕を掘り、ここを防衛ラインとして、1945(昭和20)年4月1日に本島中部西海岸に上陸した米軍を、5月末に南部に撤退するまで迎え撃ったことにより、首里城をはじめ麓の玉御陵、円覚寺、弁財天堂、御茶屋御殿、識名苑、末吉宮、龍潭など史跡・文化遺産がことごとく消滅し、城下町のすべてが壊滅しました。

消失した文化財の一部(戦前のもの)

首里城正殿(明治末)賑わう守礼門、昭和12年ころ戦前の龍潭、世持橋と中城御殿

御茶屋御殿跡(東苑)

御茶屋御殿跡(東苑)

御茶屋御殿跡(東苑)

国王が遊覧したり、冊封使など国賓を歓待した別邸兼迎賓館御茶屋御殿。
“拝でぃ拝みぶしゃや首里天加奈志、遊しでぃうちゃがゆるお茶屋御殿” (古屋チルー)と詠われた。

戦前の識名苑

戦前の識名苑

戦前の識名苑

御茶屋御殿が東苑と呼ばれたのみ対し、南苑と呼ばれた、琉球王国最大の別邸。
国王一家の保養や中国皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)の接待の場にも利用された。 1799年に造営。

末吉宮

末吉宮

末吉宮

一尚氏六代尚泰久王ころ(1454年~60年)、鶴翁和尚が熊野山所権現を迎え、まつったのがはじまりの古い宮-末吉宮。下方には、組踊「執心鐘入」の舞台で、「末吉の寺」(シーシヌティラ)と呼ばれ親しまれてきた、遍照寺(もと万寿寺)の跡がある。

※このページの写真はいずれも「写真集 沖縄」(那覇出版社刊)より