戦後の首里復興
戦争で廃墟と化した首里の町に
元の首里人が戻り、瓦礫を片付け、
石垣を積みなおし、一からの復興が始まりました。
復元された弁財天堂
戦争で廃墟と化した首里の町に
元の首里人が戻り、瓦礫を片付け、
石垣を積みなおし、一からの復興が始まりました。
1946年(昭和21)、県庁に代わる行政組織として「沖縄諮詢委員会」が発足し、戦乱に荒れたそれぞれの市町村への住民の帰還が徐々に認められていきました。
戦前の19の町(赤田・崎山・鳥堀・石嶺・久場川・平良・大名・末吉・儀保・赤平・汀良・当蔵・大中・桃原・山川・池端・真和志・金城・寒川)に元の首里人が戻って、瓦礫を整理し、石垣を積みなおし、バラックを建て、最小限の衣食住を確保しながら首里を復興させていきました。
廃墟に散った文化遺産を首里人の責務として懸命に収集したのもこの頃です。
とくに守礼門は、地元首里住民などの篤志家や海外の同胞が守礼門復元期成会を結成して浄財を集め、当時のお金にして23,514ドルと2ヵ年の歳月をついやして、昭和33年10月10日に完成しました。
戦災で一面、廃墟と化した首里の丘に戦後復興の最初のシンボルが建ったのでした。
地元の人々の血と涙の結晶ともいえるその事業の証しは、現在、多くの観光客でにぎわう守礼門右脇の石版プレートに見ることができます。
守礼門復元事業を記念した石版プレート。
門の右脇の壁に今も見ることができる。
守礼門復元記念切手(琉球郵便昭和33年発行、3セントの記載が懐かしい)
その後も、円覚寺、弁財天堂、龍潭・世持橋等々の欄干はじめ様々な文化財が一面の瓦礫の中から掘り出され、龍潭の前に建てられた首里市博物館(後の県立博物館)に収容されました。
その一つ、一つが首里地区の戦後復興の証しとなり、また歴史研究の生きた素材となり、それらの施設復元の貴重な史料、足がかりとなっていきました。
戦後の首里の主な復元施設
- 旧円覚寺総門(昭和43年復元、1968年)
- 弁財天堂、天女橋、中島(昭和44年修復、復元、1969年)
- 玉陵(昭和49年修復、復元、1974年)
- 園比屋武御嶽(昭和31年復元、後に解体、昭和61年修復完成、1986年)
- 首里城正殿、南殿、北殿、御庭、各城門などの主施設(平成4年復元、1992年)
これらの様々の文化財は、、現在、那覇市おもろまちに2007年、新しく開設された県立美術・博物館に移管され、多数の参観者を集め、琉球・沖縄500年の歴史を知る淵源となっています。
首里城下のハンタン山・アカギの森も砲弾でご覧の通り。左、1950年代。右、1986年頃。園比屋武御嶽辺り。
「写真集沖縄戦後史」(那覇出版社刊)より
1974年(昭和49年)に復元され、2001年に「世界遺産」にも登録された玉陵(たまうどぅん)
このように首里城を中心とした琉球王国を偲ばせる歴史施設は、一つ一つ着実に復元されていったばかりか、2000年12月には、首里城とその周辺一帯が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として世界遺産に登録されたのは耳新しいのところです。
そして今、これと不離一体の関係にある首里王府の迎賓館と文化施設を兼ねていた御茶屋御殿(首里崎山町)を始め、琉球国王子の住まいの一つであった中城御殿(旧県立博物館敷地)、歴代琉球王の菩提寺であった円覚寺など大小の文化遺産も戦前以上に復元させたいと、首里人は考えているところです。
現在、首里人を構成する5万7千人余の住民のうち、およそ半数は戦後県内各地から移住してきた“新”首里人で、こうした方々が膨大なエネルギーを秘めた豊かな人材となって、首里の新たな振興に参与しています。
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琉球王国の歴史と変遷
日本の南の果てー亜熱帯の島々に
もうひとつの文化が華ひらいた。
琉球王国、450年。
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首里城と城下町について
城を中心に、町が生まれ、王国が整った。
琉球王朝の華―スイグスク。
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首里の風土、土地柄
高台にあるのに、そこは森と水の町。
珊瑚の島の自然と歴史文化が生んだ
世界遺産・首里城。
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戦前の首里と、首里人
戦前の首里は、王朝残影。
詩人・佐藤惣之助はこう感嘆しました。
『しづかさよ、空しさよこの首里の都の宵のいろ…』
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沖縄戦による災禍
首里に日本陸軍司令部があったことから、
王国の史跡・文化遺産のことごとくが消失し、
城下町のすべてが壊滅しました。
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戦後の首里復興
戦争で廃墟と化した首里の町に元の首里人が戻り、
瓦礫を片付け、石垣を積みなおし、
一からの復興が始まりました。
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首里城復元計画と工事
首里城の復元は、本土復帰前の琉球政府の、
そして復帰後は市、県、国あげての
悲願であり、夢でした。
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